奈良
| 固定リンク
山寺
山寺(宝珠山立石寺)は、貞観二年(860年)清和天皇
の勅使により天台宗の僧、慈覚大師円仁によって、
開基された霊場である。
奥の院まで1015段の石段が続き、52万坪の境内には、
幽玄ともいわれる情景が、広がる。
途中にある五大堂からの眺めは、素晴しい。
ここまでは、観光客が来る。
前回来た時、松尾芭蕉の「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」
の句碑があったが、これが見つからない。
その代わりに、立札で句と説明文が立ててあった。
鳴子峡 鳴子峡は、侵食で刻まれた深さ100mもある大渓谷 である。 鳴子峡遊歩道は、断崖絶壁に沿って2.5Kmもあると 説明されているが、現在閉鎖中のため通行出来ない。 大深沢橋から眺める紅葉の景色は、素晴しい。 灰渇色の岩肌とブナ・ナラなどの黄色、鮮やかなカエデ の赤色、マツの濃い緑がそれぞれ引き立てあい素晴しい 紅葉であった。 銀山温泉 銀山温泉は、かって、江戸時代初期の大銀山として 栄えた「延沢銀山」の名称に由来している。 大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造旅館が、 銀山川の両岸に沿って軒を並べ、昔ながらの独特な 景観を味わうことが出来る。 しかし、車で行けず、山の上に車を止めて、15分位 歩いて行かなければならない。 川岸の両側の道も狭く、観光として訪れても見るもの が、少ない。 旅館街の一番奥の先に滝があるが、行く人も少ない。 どのように観光客を呼込むのか、感じられず、寂れた 感じをした。 最上川船下り 最上川は、古く奈良時代より船運として栄えた。 奥のほそ道で、芭蕉が船で下り有名になった。 船頭の語る、最上川の歴史と文化と舟歌に耳を傾け ながらの船下りである。 当日は、雨でビニールのカバーで、船全体を覆いが あり、外が見えない。 景色を見る時は、ビニールの覆いを開けなければ ならない。 風と雨が入り込み状況は、よくなかったが景色を楽しめた。 最上川は、
河川で、日本三大急流の一つである。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
根本中堂
根本中堂の堂内で僧侶より一般的な説話を聞いた。
内部は、薄暗く最澄が灯した灯火が1200年間一度も
消えることもなく輝き続けているので不滅の法灯と言われ
ている。
根本中堂とは、比叡山延暦寺の総本堂である。
中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師寺・
文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を
中堂と呼ぶようになり、後にこの三堂は、一つの伽藍に
まとめられ中堂という名前が残ったとされている。
比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、
中心的建築物である。
1200年前、伝教大師最澄は、日本の国の安泰と国民の
幸せを祈って日本人に合った仏教を比叡山に開いた。
その教えの根本をなすものが「個々が思いやりの心を
持って一隅を照らす人になる」すなわち一人一人が相手の
立場に立って考え自分の出来ることを精一杯行うことが
周りが良くなっていくと言うことです。
「一隅を照らすこれ即ち国宝なり」ということである。
この様な行動を皆が行うと、日本は、素晴しい国になる。
現在の根本中堂は、織田信長の比叡山焼き討ちの後、
慈眼大師天海の進言により徳川三大将軍家光の命によって
寛永11年(1634年)より8年の歳月をかけて再建された。
総桧造りの寝殿造りとなっている。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
竹生島
琵琶湖に浮かぶ緑に包まれた霊場の琵琶湖八景の
竹生島は、彦根港から船で40分のところにある。
島は、周囲2Km,海抜199.6m全山花崗岩である。
古くから神の島として崇められ多くの人々の厚い信仰を
集めて来た。
竹生島は、神仏が一体化した思想の中で発展して来た。
明治時代の神仏分離令により「宝巌寺」と「都久夫須磨
神社」に分かれた。
宝巌寺は、神亀元年(724年)、聖武天皇が夢枕に立った
天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は
弁才天の聖地であるから,寺院を建立せよ。すれば
国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」と
いうお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、
堂塔を開基させたのが始まりです。
日本三大弁才天の一つに数えられる聖地であり西国
三十三箇所観音霊場の第三十番礼所でもある。
都久夫須磨神社は、浅井岳(現在の金糞岳)の神である
浅井姫命が祀られている。
伊吹山の神である多々美比古命が、浅井姫命と高さを
競って負け、怒って切り落した浅井姫命の首が琵琶湖に
落ち竹生島が生まれたという伝説が残されている。
桟橋を降りて、すぐに島の入口に拝観料発売所(400円)
があり、ここを通らなければ中に入れないようになって
いる。
すぐに急な階段を上り宝巌寺本堂(弁才天堂)そして
階段を下って都久夫須磨神社である。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
長浜城
長浜ロイヤルホテルに宿泊して、時間があったので
豊公園の中にある長浜城と黒壁スクエアを散策する。
直江兼続の盟友、石田三成の出生地、長浜を宣伝する
フェスティバルを開催していた。
長浜城及び黒壁スクエアには、9年前に訪れた。
現在は、寂れた感じがする。
長浜城は、天正元年(1573年)に木下藤吉郎(後の
豊臣秀吉)が浅井長政攻めの戦功により織田信長から
湖北三郡を与えられた。
羽柴秀吉と名乗り初めて城持ちの大名に出世した。
当時、今浜と呼ばれていた、この地を信長の名から
一時拝領して長浜に改名し城を築いた。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、ここを
根拠地として大勝し織田信長の後継者としての立場を
確立した。
秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585年)
から5年間在城した。
江戸時代になって慶長11年(1606年)に徳川家康の
家臣、内藤信成が入城、その子、信正が攝津高槻に
移るに至って廃城(1615年)となった。
建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移された。
現在の長浜城は、東工大、藤岡通夫博士の設計指導に
より昭和58年に、鉄筋コンクリート造りで、3層5階
建で再興され市立長浜城歴史博物館となっている。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
彦根城
歴史と自然に出会う、ぐるっと琵琶湖全周の旅の
ツアーに行って来た。
彦根城の案内によると、
彦根城は、三層白亜の天守を頂き、二重の堀に囲まれた
城郭が400年前の姿をとどめる天下の名城です。
初代藩主井伊直正(1601)より第14代藩主井伊直憲(1860)
に至るまでの260年間、一度も国替えや城攻めもなく、
いまなお彦根の象徴として35万石の気高い雄姿を誇る。
昭和27年、国宝に指定される。
姫路、松本、犬山城と共に国宝四城の一つである。
天守へ上る階段というより梯子は、狭く急な角度で取付け
られているので、上り下りが大変である。
いざという時、刀や甲冑を付けて上り下りするのは、
出来るのか、大変なことと思われた。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
住まい・インテリア | 心と体 | 旅行・地域 | 日記・コラム・つぶやき
最近のコメント